人工知能が人間の思考部分に入り込むようになった。いや、思考部分に取り込むためのツールになったと言うべきかもしれない。
画像認識や音声認識や画像生成あたりまでは、便利なセンサーや、新しい描画ツールといったぐらいの認識程度だった。
最近は、統合的な思考ツールとして便利になった。
人工知能が生成した映像は、さまざまな映像技術を統合したものになっている。カメラワークも、CG制作も、技術レベルでは大いに驚異だ。通常考える以上に大胆な構図や背景やキャラクターも登場する。
上手くこの技術を利用することで、想像力を描画できる。
生成AIには「学習」の結果を統計的に組み合わせて表出することで驚かされた。またその学習能力の進化は著しく、欠点の補正も素早い。わずか2年あるかないかの時間で「成長」している。
美術にも、大きな影響を与えるのは確かだ。しかし、美術は、人工知能が得意な、学習でも、推論だけでは成り立たないものだ。
動物学者であり、ロンドンの現代美術の中心的な役割を果たしているInstitute of Contemporary Artsのディレクターもつとめたデスモンド・モリスは、1950年代から60年代に若いチンパンジーのCongoにドローイングを描かせて、展覧会をやり、その作品も売れたりもした。
モリスは、シュルレアリスムの画家でもある。シュルレアリスムのオートマティズムや、その後の抽象表現主義にも影響を及ぼした「無意識」を考えるならば、チンパンジーに絵を描かせるのも、その文脈にあるとも考えられる。
だがCongoが描いた絵は、オートマティズムや無意識の産物なのだろうか?
人間中心主義的な考えからすれば、チンパンジーは、人間中心の範囲から外れる。だが機械とか道具ではない。
Congoは、彼独自の意識や美的な感性で絵を描いたのではないだろうか?
さてここで、これから考えるべきことは、知能や意識がアートにとってどれだけ重要な条件であるのかと言うことだ。これは制作する者にとっても、鑑賞するものにとっても問われるものだ。
ちなみにCongoの絵は、最初はチンパンジーが描いたものだとは知られていなかった。アーティストが描いた作品だと思われていた。